プロフィール

平林 遼 指揮者
お問合せはこちらから
ryo.hirabayashi.conductor@gmail.com

人気ブログランキング

2018年2月22日木曜日

『シューマンに関してのエッセイ』

(指導に行っている団から、プログラムノートを頼まれたので、頭の中にある情報のみで、さきほど3、40分で即興的に書き上げ、何回か誤字チェックなどしたものです。)



 今回、柏響のシューマン、シュトラウス、ブラームスの各楽曲を、度々リハーサルさせて頂きました、指揮の平林 遼と言います。シューマンについて自由に書いて下さい、ということなので、自由に書かせて頂こうと思います。私は学者ではなく演奏家なので、あまりアカデミックな史実や資料に基づいた学問的に根拠のある内容より、もう少し感覚的な文の方が良いだろう、と思います。



シューマンと言えばピアノ音楽で、自身は手の故障によりヴィルトゥオーゾとしての道を断念しましたが、奥様のクラーラは当時を代表するピアニストでした。お父さんが本に関わる職業だったこともあり、シューマンは子供の頃より音楽だけでなく、文学とも共にありました。その物語やファンタジーに通ずる詩的な感性は、ピアノ音楽という、たった独りでも完結する、こじんまりとした芸術空間にも、ピッタリと来るのかもしれません。一方、オーケストラの曲は、1番の交響曲を創った際に、メンデルスゾーンにオーケストレーションの不備を指摘されたりしており、他の大作曲家よりも技術的に(特に管弦楽法が)熟達していない、と見られる点があります。それにより、マーラーやかつての大時代の指揮者達は、彼の交響曲に、平気でオーケストレーションの改変を加えました。これほど有名な作曲家の主用作品の中で、そういう扱いを受けたのは彼の交響曲群が筆頭であり、確かに私自身も、そのぎこちなさというか、洗練されきっていないようにも聴こえる楽器の扱いを感じたこともありました。ただそうだったとしても、一部無骨なテクニックによって書かれているシューマンのシンフォニーは、独特の存在感を放っているのも事実であって、昨今では原点が尊重されています。

 
シューマンの交響曲の好みは、人によってかなり分かれる傾向にあるようです。私自身は3番が最も好きで、3、2、4、1の順番です。今回演奏される2番の特徴ですが、病気がちだったシューマンの、体調の悪い時期に書かれており、「病みの中」のメランコリックで鬱々とした状態が、そのまま反映されている、と作曲家自身が述べています。具合の悪い時に創られたこの序奏部ですが、独創的な響きで鋭い霊感を放っており、私自身はビリビリっと、芸術的な刺激を与えられます。シューマンは辛かったのだと思いますが、結果的にとても美しく、印象的です。序奏が終わると、シューマンの青年期の熱い活力が音楽から迸り、同時にやや全体的に地味で渋いですが、主部以降もやはり素敵です。



シューマンは渋いのです。ブラームスも渋いですが、シューマンも渋い。独特のドイツ文学的感性と妄想性相まって、シューマンの個人的な芸術感覚がやや分かりづらい時もあり、そういったことが丁度よく混ざり合って、独特な渋みを醸し出しています。シューマンはメンタル疾患に長く苦しんでいたことが有名で、曲によっては病的な兆候が更に如実に反映されている楽曲もあります。(ピアノ・ソナタの第2番等) 同時に私が個人的に感じるのは、シューマンの幻想性・文学性、言い換えると空想性や妄想癖と、彼の精神的な病は一部に関連性があったのではないか、という辺りです。芸術家には、幻聴や幻影に惑わされた人が文学等の分野でも少なくありません。それが幻であるか真実であるかということですが、当人にとってはリアルなものであるからこそ、不思議で魅力的な芸術作品が人類史に誕生してきたことも事実です。シューベルトやチャイコフスキーにもそういうところがあったのでしょうが、その幻と現実の境に降りてくる芸術のインスピレーションが幸福をもたらすこともあれば、それらが自分を地獄に引き摺り降ろそうとしているように感じられたこともあったのでしょう。シューマンは長い闘病の末、最後は潔いことに家族の元から離れ、精神病院で独り亡くなってしまいます。この辺りの記述を読んでいると、胸が痛くなってきて、かわいそうです。

 
また、シューマンは指揮者としても一定の仕事をこなしましたが、指揮を振るテクニックやリハーサルの技術において、あまり上手くいかなかったようです。典型的な芸術家タイプというか、この世に即した合理的な仕事術において、適正が一部足りなかったところがあるのかもしれません。以上、彼のいくつかの側面に関して述べました。

 
私は、彼の音楽作品は、クラシックの分野に留まらずに、人類全体の文化史において貴重な1ページを成していると考えます。作曲家にはそれぞれ特有のマジックがあり、それは音で構築物を組み立てていくコンポーザー、コンポニストである場合、音の配列の妙そのものです。例えばマーラーにはマーラーの魔法があり、そこに私たちは、その作曲家の個性、「オリジナル」を聴くわけです。ブラームスの緩徐楽章に現れる魔法は固有の癒しを持ち、アロマテラピーとどちらがよりリラックス効果があるだろうか、と考えたこともあります。(よく考えたら種類の違う癒しだと思いますが。) シューマンの有名なピアノ曲集、子供の情景はトロイメライ等が有名ですが、やはりここには彼特有の神秘的な音の連なりが存在し、かくしてシューマンのファンが、彼の音楽を愛し続けるのでしょう。

 
私自身は前述したピアノ・ソナタの2番を中学生の時に取り組んでおり、シューマン同様、この曲の練習中に手の故障を経験したことがあります。(そんな経緯もあり、親近感を感じる作曲家の一人です。) ピアノ曲群がやはり彼の主戦場であると思いますが、ベートーヴェンの第9、ハイドンの天地創造にあたるような最高傑作はシューマンの場合、「楽園とペリ」だと思います。実際のところ、歌曲、室内楽、交響曲以外のオーケストラレパートリー、掘り起こしてみると、どれも名品ばかりです。演奏機会の少ない曲は、それだけマニアックで分かりづらく、厄介な印象があったりもしますが、そういったところにこそ、彼の文学フェチ的な本質が、やはり潜んでいると思います。



ピアニストのファジル・サイが、「作曲の基本は即興であり、シューマンもそう言っている」と、言っていました。シューマンは幼少時より、やはりある種の天才少年であり、彼は人生において終始、音楽の霊感と共にありました。その霊感が先にも述べましたように、悪魔悪霊となって彼を苛むことも多くあったようですが、本当に辛かったであろう闘病生活は結果的に、芸術作品として昇華されている面もあります。そういった悲劇性においても、そこに人生の真実があることで、私達はやはり心を動かされるのだと思います。



今回の2番は、オーケストラにとっては難しい曲です。ロマン派的世界観にありながら、楽譜をよく読んでみると、聴こえてくる響きには、古典的な側面があり演奏する側はプラクティカルな奏法上の課題に向き合う必要があります。それ即ち、和声を基にしたフレージング感覚や、それに伴うテンポ感、楽譜に書いていない潜在的なアゴーギグ、ダイナミックスの変化等です。いぶし銀な立ち位置の2番交響曲ですが、彼の他の作品群と共に、今後も演奏されていくことでしょう。

 
愛もあれば別れもあり、栄光に輝く時もあれば悲嘆にくれざるを得ない時もある。精神の病の闇に沈み、そのまま生涯を終えることとなったシューマンですが、数百年先の東洋の地において、多くの人が彼の交響曲と真剣に向き合うなんていう未来は、予想だにしなかったでしょう。これら人生の不思議が文学のテーマそのものであり、シューマンの生きた時間そのものであり、彼の音楽そのものであるでしょう。



平林 遼 

0 件のコメント:

コメントを投稿